|
私が本格的に歌舞伎を観だしたのは、昭和十五年からで、この年大学に入ってからである。この年は、五代目中村歌右衛門と二代目市川左団次が亡くなった年でもある。
私は、歌右衛門は二度観た記憶がある。その一つは優が得意にしていた糒倉の淀君であり、もう一つは「地震加藤」の淀君で、地震の後加藤清正が、淀君が避難している庭園に見舞いに駆け付ける場面であったと記憶している。
歌右衛門は鉛毒のために既に身体が不自由になっていて座ったままであったが、声ははっきりと聞こえた。昔の舞台用の白粉には鉛が入っていたので、長い間それを使っていたので、中毒したものである。
左団次は、「堀端」の丸橋忠弥を観たのははっきりと覚えているが、もう一つは何だったか覚えていない。この「堀端」では、松平伊豆守に十五代目市村羽左衛門が出ていたのをよく覚えている。五分くらいの出演だが、その爽やかな姿と声は素晴らしいものであった。いわゆる儲け役である。
十五代目羽左衛門が亡くなったのは、昭和二十年五月六日で、疎開先の信州・湯田中の老舗旅館よろず屋であった。終戦間近のこととて長野には寝棺桶がなくて、東京から取り寄せたとのことである。十五代目は世話物を得意としていて源氏店の与三郎は、得意中の得意役であった。お富は六代目尾上梅幸で、名コンビとして評判だったが、この梅幸はもう亡くなった後だったので、私は観ていない。私が観だしてからのお富は、関西から呼び寄せた十二代目片岡仁左衛門だった。彼は容姿の美しさは素晴らしかったが、どこか冷たい印象を与えた。不幸にして、戦後の食糧難の時代に悲惨な死を遂げたことが知られている。
十五代目はこの仁左衛門の他に、現在でも人気狂言の「色彩間苅豆」(いろもようちょっとかりまめ)では、六代目尾上菊五郎とも共演している。これは仁左衛門が舞踊が得意でなかったことによると思う。この「色彩間苅豆」も六代目梅幸と十五代目が復活上演したものであった。
十五代目は、時代物はあまり演じなかったが、盛綱陣屋と石切梶原は頻繁に演じていた。
石切の本外題は「梶原平三誉石切」であるが、十五代目が演じる時には「名橘誉石切」といっていた。これは優が得意な狂言でもあり、十五代目の紋が橘、屋号も橘屋であったことによるのであろう。石切は初代中村吉右衛門も演じていたが、根が合理的でない筋なので、写実を得意とした吉右衛門よりは、華のある十五代目の方が良かったと思っている。吉右衛門は時代物が得意で、盛綱陣屋や熊谷陣屋を得意としていた。盛綱陣屋は前記の通りに十五代目が得意だったが、熊谷陣屋は吉右衛門の得意中の得意のもので晩年身体が不自由になってからも演じており、最後の舞台もこれだったかと思う。
|