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吉右衛門は、ここに記す名優たちの中では最後まで生き残り、昭和二九年に亡くなった。六代目尾上菊五郎は昭和二四年に亡くなった。勧進帳の弁慶を一六〇〇回演じた七代目松本幸四郎も二四年に亡くなっていると思う。
勧進帳は人気狂言で、現在でも上演されない年はないと云われる。弁慶役は七代目の次男初代白鴎から今の幸四郎へと引き継がれ、一一月二六日には札幌公演で六七五回になり、五ヵ年計画で一〇〇〇回をニューヨーク・ロンドンで迎える計画だと聞いている。
七代目幸四郎は子息に恵まれ、長男は十一代目市川団十郎の名跡を継ぎ、また、次男は初代白鴎、三男は二代目尾上松緑となって、それぞれ栄えている。
六代目尾上菊五郎は、あまり子息には恵まれず、後継者は養子の七代目尾上梅幸だが、実子の九朗右衛門は、歌舞伎役者をやめてアメリカに居住している。梅幸は立派な後継者となり、その子七代目菊五郎、さらに孫六代目尾上菊之助も順調に育っている。
十五代目市村羽左衛門は後継者に恵まれず、十六代目は早世し、今年亡くなった十七代目は芸の上では全く正反対の渋い役者であった。
初代吉右衛門は女房役者に恵まれた人で、弟の三代目中村時蔵が良い女房役だったが、後に別れて独立したので、その後はまだ若かった芝翫(後の六代目歌右衛門)を女房役とした。芝翫には良い勉強となったに違いない。
その歌右衛門も亡くなり、世代交替の現在である。今の役者も成長して結構良い舞台を見せているが、昭和一〇年代、二〇年代初めの名優を観ている我々には、一回り小さいような感じがすると言っては酷であろうか?
六代目菊五郎の偉大さは養子の梅幸、七代目幸四郎の三男松緑、初代吉右衛門の弟勘三郎の三人を一緒にしたほどの芸域・演技力があったことである。六代目といえば、踊りの「鏡獅子」は戦前に国際文化振興会が映画化して海外にも紹介したが、本人はこの映画は不満だったそうである。「鏡獅子」は梅幸により継承されたが、勘三郎もこれを演じている。
六代目は世話物を得意としていた。黙阿弥物の他に宇野信夫氏の新作物も数多く演じている。ただ、唯一の弱点は、声、特に声量が弱いので、三階席では聞き取り難いこともあった。時代物をあまり演じなかったのは、この点にあるのだろう。しかし時代物の「仮名手本忠臣蔵」の三段目では高師直の役で、松の廊下で衣装を着替える演出をしたり、踊りの「色彩間苅豆」では伊東深水画伯の舞台装置を採用して花道を通らず、舞台の奥から登場したり、衣装も従来のものと全く違う模様のものを着たこともある。また、長良川の鵜匠の役をして、本物の鵜を使ったこともあった。これは新しい試みを好んだためであろうが、六代目の実力だから実現できたものと思う。それだけの実力者であったのである。
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