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志摩 淳一(82歳)
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| 可江と云っても、歌舞伎好きの人でもあまり多くの人はご存知ないと思いますが、可江とは、十五代目羽左衛門の俳号・雅号です。羽左衛門は、昭和二〇年五月六日に疎開先の信州・湯田中の老舗旅館「よろず屋」でひっそりと亡くなりました。長く患うわけでもなく、一寸腹具合が悪く、一日だけ床について、翌日苦しむこともなく亡くなったそうです。 それで五月六日を可江忌と申します。羽左衛門の家は芝の明舟町にあったので、歌舞伎座で演技中に、「明舟町!」と声が掛かりました。明舟町の町名は戦後の町名変更でなくなりました。歌舞伎座の所在地、木挽町は今では東銀座です。由緒ある町名をどんな理由で変更したか知りませんが、無粋な役所仕事と申せましょう。話が少し外れましたが、戦争末期の湯田中には寝棺がないので、羽左衛門のために東京から取り寄せたといいます。 羽左衛門の当たり役は数多くありますが、その中でも源氏店の与三郎は随一で、名優と云われ、特に世話物が得意中の得意の六代目菊五郎もこの役はやらなかったほどです。現在では十五代目仁左衛門や十二代目団十郎も演じますが、それなりの良さはあっても、とても十五代目羽左衛門には程遠いと思います。 また一寸話はそれますが、新派の名女形、花柳章太郎と羽左衛門との別れとなった話として次のような逸話があります。羽左衛門が長野の湯田中に行く列車には、花柳章太郎が偶然同じ車両に乗り合わせていましたが、満員で動きがとれず挨拶に行けませんでした。花柳は軽井沢駅での長い停車中に、プラットホームに下りて羽左衛門に挨拶をしに行ったそうです。軽井沢駅は碓氷峠を登るための機関車を増結するため停車時間が長いので、その時間を利用したのです。窓際に掛けていた羽左衛門に挨拶をして手を握り合い、羽左衛門は「また芝居が出来るようになったら二人で一緒にやれる脚本を書いてもらおう」と、持っていた当時としては得難い茹で玉子を十個ほど花柳に渡したといいます。これが二人の別れとなりました。明舟町の羽左衛門宅も五月下旬の空襲で焼失しました。 私の学友に羽左衛門の孫がおりましたが、私の歌舞伎好きを知って羽左衛門直筆の扇子をくれました。絵柄は、助六の印籠に、桜の花びらが数枚散っているものですが、掛け軸にして四月下旬から五月六日まで床の間に掛け、可江忌を偲ぶことにしています。 話は戻りますが、羽左衛門が亡くなった時に、春の遅い湯田中では丁度桜が咲いていて、羽左衛門の遺体の蒲団に数枚の桜の花びらが散っていたという話もありますが、出来過ぎた話なので、真偽のほどは分りません。 |
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