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四月は春爛漫の桜の舞台「京鹿子娘道成寺」を選びました。「花のほかには松ばかり……」一面の桜の山に松がまじり、五重塔も見えております。筋も歌詞も皆様ご存知の長唄です。最近は女形の卒業論文のように、若い女形が皆演じておりますが、戦前は何と言っても、六世尾上菊五郎の出し物とされておりました。菊五郎が一番得意としたのは世話物で、初世吉右衛門と組んでの世話物は素晴らしいものでしたが、踊りの中では「鏡獅子」「道成寺」が得意中の得意で、歌舞伎座ではこの二つは殆ど菊五郎により上演されておりました。
さて、歴史的に見れば、初演は宝暦三年、(一七五三年)に初世中村富十郎が江戸下りの初お目見得に中村座で初演したものですが、上方では既に二回上演していました。最初の幕明きと中ほどに出る所化は、昔は二人きりだったとのことですが、現在では三十人くらい出て手拭を撒いたりして賑やかになり、また主役の衣装替えの時の繋ぎも勤めています。菊五郎の亡き後では六世歌右衛門、七世梅幸、現在は芝翫、玉三郎、菊五郎、富十郎、福助など多くの女形や立役も演じております。
五月は、特にこれでなければという芝居はありませんが、「色彩間苅豆」を取り上げました。この芝居は人気が高く、度々演じられております。しかし、その初演は非常に古く、文政六年六月に、江戸の森田座で「法懸松成田剣」の第二番目、序幕の「木下川堤累殺しの場」に出した浄瑠璃所作事から、「色彩間苅豆」の名前が出ています。現在の演出になったのは、大正九年十二月に歌舞伎座で、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門に、清元は五世延寿太夫で復活されてから流行曲となり、さらに、大正十四年七月に市村座で、六世尾上菊五郎の累と十三世守田勘弥の与右衛門で、原作に近付けて上演するに至って、梅幸型と菊五郎型との両様が伝えられています。六世梅幸も十三世勘弥も亡くなってからは、菊五郎と羽左衛門が演じることが多くなり、昭和十三年六月の歌舞伎座で羽左衛門と菊五郎が演じた時は新趣向で、伊東深水画伯の装置、衣装デザインで、二人の出は舞台の奥から下りて来て、所作はいつもと殆ど同じでしたが、累の衣装は朝顔の花が大きく描かれた派手なもの、与右衛門も鼠色の格子縞で、「夜や更けて」の所では、捕手の代わりに蝶を出して不気味さを見せるという趣向でしたが、不評でした。この演出はこの時だけで、以後は普通のやり方になっています。
六月は梅雨の季節なので「梅雨小袖昔八丈」、いわゆる髪結新三と致しました。この芝居は明治六年(一八七三年)に中村座で初演され、新三役は五世菊五郎、弥太五郎源七と家主長兵衛役は三世中村仲蔵、お熊役は八世岩井半四郎でした。その後六世菊五郎の当たり役となり、六代目没後は松緑、勘三郎に引き継がれ、今日では七世菊五郎、五世中村勘九郎が演じています。今後とも何度も上演して六代目に劣らない良い舞台になってもらうことを期待しております。
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