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私の人生で最も衝撃的な出来事と言いますと、なんと言っても二・二六事件でございます。当時私は十八歳ぐらいでございました。あの時殺された斎藤実内大臣は、私の祖父の従兄弟でございました。私どもは大伯父様と呼んで親しんでおりました。大伯父は、海軍大将で犬養様の後を受けて総理大臣を務めたこともありました。とても静かな方でしたが、君側の奸などと呼ばれ軍部急進派ににらまれていたようでございます。その時大伯父は、鉄砲の弾を雨あられと浴びて死んだので御座います。大伯母は、気丈にも兵士に立ち向かって「この老いぼれは殺さなくてもそう長生きするものではありません」と言って銃口をつかんだのです。弾は大伯母の掌を貫通です。翌日四谷中町の自宅で行われた葬儀では、大伯母の白い包帯姿が痛々しく目に焼き付いております。大伯父は、大変温厚な人柄で西園寺さまにもとても信頼されておりましたので,朝鮮総督を二度務めたり、ジュネーブ軍縮会議に出席したりもいたしておりました。
こうして日本は、軍国主義の坂道を転がって行くので御座いますが、あの温厚な大伯父
は生きる時を間違えたのではないかと思っております。
また、戦時中はそれこそ永く大陸におりましたが、私どもは比較的恵まれた境遇にありましたので「大地の子」のような劇的なお話しはございませんよ。
当時私の主人は、満鉄に勤めておりました満州事変の処理で北京にいて、物資の輸送を担当しておりました。私は北京に憧れて居りまして、北京に行けると言うだけで縁談を承諾いたしました。北京では紫禁城の近くに鉄道が走っておりまして、人の乗り降り専門の北京駅と貨物専用の前門駅がございまして私どもは、前門駅の近くに家がありました。まだまだ穏やかで毎日がのんびりした生活でございました。
昭和二十二年私達は、アメリカの車輌運搬船LSTに乗せられて山口県の仙崎に向けて帰国する事が出来ました。船内で病死する人も沢山おりました、ことに幼い子供さんが亡くなるのは悲惨なもので御座います。船内で亡くなると全て水葬にいたします。海に浮かべた小さな棺がいつまでも母のいる船を追いかけてくるので御座います。それはもう見るに耐えられません。甲板で見送る母親は耐え兼ねて海に飛び込もうとする人もおりました。山口からは鉄道で、とりあえず主人の実家山形に参りましたが、途中神戸や大阪の惨状を目にした時改めて日本の敗戦を実感いたしました。
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