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70歳以上の機関誌「銀杏」
特別企画「若い世代に伝えたい一言」
 
  新春号に引き続いて、激動の明治、大正、昭和、平成を生き貫いて来られた方々にご寄稿いただきました。  
     
 
 焼夷弾と機銃掃射
 
 
酒井キクヰ(八十才)
 
     

 終戦当時はどちらにお住まいでしたか。印象に残っているお話しをお聞かせください。

 終戦は横浜で迎えました。私の父は伊勢崎町で衣類の製造販売をしておりまして、私は確か十九才ぐらいだったかと思います。

 横浜にお住まいですと空襲に遭ったのでは

やさしい笑顔の酒井キクヰ様 はい、遭いましたとも。終戦までになんだかんだで四回も遭いましたよ。昭和十九年になると戦争も激しくなりまして、堀の内の弾薬庫が近くにありましたので集中攻撃を受けました。夏も終わりの早朝だったような気がします。家は丸焼けですが、幸い貸家を何軒か持っていましたので、そこに引っ越しました。私はといいますと、徴用で交通局に勤めました。杉田の中央市場から配給の野菜をいっぱい積みまして、停留所ごとに降ろしてゆく仕事です。時にはその市電を運転した事もあります。二回目の空襲は焼夷弾でした。あれは実によく燃えますね。家中の人は皆外に出てましたから助かりました。三回目は、防空壕に逃げようとする私達を、父は止めましてね、炒った米と通帳を持って根岸競馬場まで逃げました。四回目はそれこそ大空襲でしたが我が家の三軒手前で止まりました。八月に入りますと、機銃掃射がひっきりなしに行われまして、終戦の前の日でしたが、隣の伯母さんが逃げ込んだ押入れの中で死んでいました。そん時は、飛行機を操縦しているアメリカ兵の顔がはっきり見えました。
 この空襲の後は大変でした。本当に地獄絵でしたよ。弟が国鉄に勤労奉仕に行っておりまして、行方がわかりませんもんですから、歩いて探しにまいりました。途中、黄金町当たりの大岡川には死人がいっぱい浮いているんですよ。空襲の炎に追いかけられて熱いものですからみんな川に飛び込むんです。そして溺れ死ぬんです。赤ん坊を背負って逃げる母親とすれ違ったんですが、赤ん坊は死んでいました。
 戦後がまた大変でした。横浜には進駐軍が大勢やってきました。黒人が多かったですね。とても怖かったですよ。母に言われて、髪は短くして坊主頭ですよ。赤いものは一切身に付けませんでした。食糧不足にも悩まされました。何でも配給ですが、ある時魚のホッケが丸ごと一匹配給になりましたが、他に何もありません。調味料もありません。どうやって食べようかと思っていたら、土地の漁師さんが、海の水で煮るといいよって教えてくれました。
 戦争は確かに悲惨なもので御座いますが、今でも印象深く覚えている事が御座います。それは、勤め先の交通局からの帰りに兵隊さんに声を掛けられまして「お嬢さん藤棚の方は通りませんか」というので「はい通り道です」と答えますと「私はこれから戦地に参りますので、この手紙を母の元に届けてください」と頼まれました。兵隊さんの家は大きな呉服屋さんでしたからすぐ分かりましたが、お母さんに大変喜ばれました。そしてニ三日後に行ってみますと、そこは焼けて何もありませんでした。

 酒井さんは、リュウマチで痛む手を摩りながら、淡々とお話しくださいました。貴重なお話しを本当にありがとうございました。

 

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