|
清元節は文化文政期(一八〇四〜一八二九)に成立した浄瑠璃で、江戸町人文化爛熟の粋を反映し、特に職人階層に愛好されてその曲調の「軽妙洒脱」「いなせ」で「あだっぽい」ところが特徴とされ、芝居や舞踊の伴奏としてだけではなく素浄瑠璃にも力が入れられ、曲種も多彩で曲全体が情緒的な雰囲気の持続で音楽が構成されている。三味線は中棹で柔らかい音色を出し、調弦は本調子、二上り、三下り、六下りの四種である。
「三社祭」本名題は「弥生の花浅草祭」
天保三年(一八三二)江戸中村座の二番目浄瑠璃として上演されたもので当時浅草に開帳していた三社権現の三社祭を当て込んで書き下ろした瀬川如皐の作で上下二巻に分かれ、上巻は常磐津節を地にした三社祭の場で、山車人形として神功皇后と武内宿禰が踊った。斎兵衛の清元節を地にした三社祭は下の巻で宮戸川の場に変わり、神功皇后は姿を変えて漁師浜成(善玉)になり武内宿禰は同じく漁師武成(悪玉)と変って行く。内容としては詞章の中に「かかる折から虚空より風なまぐさく身にしむる。あきれてしばし両人は大空きっと見上ぐれば善か悪かの二つの玉」とあるように浜成と武成の二人が網打ちしていると急に空から善玉、悪玉が降りて来て二人に乗り移り、夫々が善玉と悪玉の面をかぶってとりつかれたように歴史上の悪人のことなどを踊るという趣向であるが、その中で善玉が女役になってからむクドキなど滑稽味が面白い。この構想の背景には網打で偶々網にかかった1寸八分の黄金の観音像を有難く本尊として祀ったという浅草観音の縁起と、当時儒教に神仏両道を加えた心学の流行の影響があって庶民の実践道徳の教えとなり、そこから善玉、悪玉の黄表紙が生れ、これを舞踊化して清元の「善玉、悪玉」となったのである。
「神田祭」 本名題は「〆能色相図(しめろ やれいろのかけごえ)」
天保十年(一八三九)江戸河原崎座の二番目大切として上演された浄瑠璃で三舛屋二三治の作、清元斎兵衛の作曲による。
神田明神の「神田祭」は「三社祭」と共に、江戸の祭礼物の曲として親しまれて来たがその祭の賑わいを江戸っ子の憧れの的だった鳶(とび)と芸者の手古舞に焦点を当てて夫婦の人情の機微にも触れながらご祭礼を吉原の全盛に例えて下町情緒を木遣に流して江戸を謳歌した大変威勢の良い曲である。
警護の梃子前(てこまえ)が華やかに着飾り、桟敷の見物人が一杯機嫌で行列を待ちわびる様子、詞章の中の「神田囃子も勢いよく」の次の合方は実際の神田囃子「四丁目」を採り入れたもの、「祭のナァ」は文政頃の流行歌、派手な若い衆が囃し立てながら山車と行列を引率する。「常から主の」は手古舞の芸者のクドキ。惚れた男を夫にした女房の心意気と憂いを滲ませ軽妙な節回しの中に浄瑠璃の懐深さを表わし快活な木遣り歌に絡めて痴話喧嘩の仲直り、めでたい「石橋」の獅子で江戸の恵みに感謝というところで結びとなる。
|