シルバーヴィラ向山TOPページ シルバーヴィラ向山TOPページ 催事 催事 花ちゃん通信 花ちゃん通信 出版・報道紹介 出版・報道紹介 機関誌「銀杏」 機関誌「銀杏」 施設紹介 施設紹介
70歳以上の機関誌「銀杏」
特別インタビュー「メキシコ大使館に聞く」
     
 
 集団学童疎開 宝聚院学童寮での日々
 
 
山本寿満(82歳)
 
     

いつもやさしい笑顔の山本寿満様 大正十二年、本所区亀沢町に生まれた私は、昭和十六年、東京府女子師範学校(現学芸大)を卒業しました。初めて教職についたのが何と、本所区立外出国民学校、生まれ故郷に戻って来たようなものでした。
 当時の師範学校は時の施政者の考えをまともに受ける教育政策の先端を行っていました。私が生まれてから教師になるまで、(大正十二年〜昭和十八年)の二十五年間は日本が「戦争への道」をひた走りに走った時期で、国民の思想、言論の自由を押さえ、施政のいいなりについて行くそんな時代でした。二十才で教職について昭和十九年、一学期も終わり、子供達にとって楽しいはずの夏休み……。でも戦局が激しくなり、本所区の疎開地は千葉県かみたき村宝聚院と決定。(私は五年女子の学寮長)集団疎開学童の引率者としての大任を引き受けることになった私はその不安を拭い去ることが出来ませんでした。

◎ 集団疎開出発の前夜
 昭和十九年八月二十六日の夕食。我が家にとって最近にない椀飯振舞(おうばんぶるまい)の夕食でした。母の手料理が幾つか並んだ中に鯛のかぶと煮と、いかの松葉焼があった。鯛の頭は小さく、いかも小さかったが、私の大好物。母は材料を工面するのにどんなにか苦労したことでしょう。その心情が解るだけに、ホロリとするところ…。今晩は明るく明るくと自分に言い聞かせて、「すごーい。こんなにご馳走してお母さん大丈夫!」と先ず第一声。食事が始まった。何時も口数の少ない父が、「召集令状が来た人はお国のために出征して行くが、お前はそのためではない。受け持ちの子供さん達を預かって、その命を守るために行くのだよ、これからは大変だな。お前に出来るかな」と…。一人娘として育った私に親が心配は格別だった。この夜父と二人で謡った観世流の謡曲「羽衣」が今生での納めになった。
◎ 疎開先「宝聚院」に向かって出発
 翌日八月二十八日朝、両国駅より出征兵士なみの見送りの人、人、人。歓呼の声……。電車は千葉に向かって出発。
「先生! 子供のことお願いします」の声、声が今でも心に残っている。子供達は旅行にでも行くような気分で「行って参りまーす!」私はその責任の重さを感じました。この子供達は何時帰れるのか、両親との再会はどうなるのかと一人想いを巡らして、不安で一杯だった。

◎ 宝聚院寮での第一夜
 初めて入る五右衛門風呂に、ワーワー、キャーキャー、賑やかなこと。お寺の本堂正面に祀られている大きな仏像と沢山並んだ位牌、いささか気になったが、家での別れの朝食から始まってその一日は五年生の子供達にとっては疲れたのでしょう。「お父さん、お母さん、先生お休みなさい」と眠りにつきました。
 山の朝はすがすがしい。ふとんあげ。洗顔(井戸からの水汲み)「先生! 水道は?」「水道はありませんよ」「エエー!」都会育ちの子供達にとっては新しい体験でした。
 食料はどの疎開地でも苦労が多かったようです。宝聚院学寮での暖かいご飯にバターをのせお醤油をかけて食べたご飯の美味さは子供達にとっても忘れられない味になったようです。さつま芋の茎の油炒め、行事の時に村人から頂いたくるみ餅の美味かったこと。肉ジャガというと大きなお肉を想像しますが、大きいのはジャガ芋だけで、お肉はどこか遠くの方で味がしていました。この目に見えないお肉を子供達の口へ入れるために皆でどんなに苦労したことか。村でお世話になっているおじさん達は私のことを「ひなっこ先生」と呼び、いろいろと助けて下さいました。

(次号に続く)

 

このWebに記載されている全てのコンテンツ(文章、画像)の著作権は、
シルバーヴィラ向山と情報提供者に帰属します。許可なくほかに転用することを禁じます。