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70歳以上の機関誌「銀杏」
特別インタビュー「メキシコ大使館に聞く」
     
 
 福島県同郷二人の体験したこと
 
 
佐藤 文男(76歳)
菅野 茂(70歳)
 
     

佐藤
 私は福島の白川で生まれまして、中学二年の時学徒動員で川崎の三菱重工に行きました。そこでは当時なにを作っているか聞かされる事はなかったのですが、後で聞くところによると、それは人間魚雷ということでした。そこは軍需工場でしたから当然何度も空襲に遭いました。こちらも高射砲で攻撃しまして、時には命中しまして落下傘で逃げる米兵を見たこともあります。

佐藤様と菅野様(左)菅野
 私は福島市の出身ですが、市内には修道院がありましたので空襲を受ける事は無かったんですよ。しかし郊外の橋を攻撃されたことがあります。近くに信夫山がありまして、その中腹を掘って飛行機の格納庫を作ってました。秘密の飛行場ですね。それは終戦までに完成する事はなかったですが。

佐藤
 私達の年代では、当時少年戦車隊や少年航空隊に憧れていました。手旗信号も習いました。

菅野
 私は十人兄弟でしたが、一番下の弟は防空壕の中で死にましたし、姉二人は女子挺身隊として四日市の空襲で死にました。私自身は松根油掘りに駆り出される毎日でした。
佐藤 川崎にいる頃は食糧難に苦しみました。こうりゃん飯を食いましたし、ネズミの肉まで食いましたよ。

菅野
 終戦後は本当に食べるものが無くて苦労の連続でした。私自身も食べ盛りの子供でしたから、何時も腹をすかしていました。田舎で稲刈りを手伝って飯を食べさしてもらっていました。おかずはなく、飯だけですがそれこそ、銀シャリで腹いっぱい食える喜びは格別でした。

佐藤
 本当に銀シャリには憧れましたね。福島の田舎にも、当時はよく大相撲の巡業が来ましてね、むしろで囲った小屋のようなところでお相撲さんたちが、ちゃんこを食べていましたが、子供達はむしろをめくって覗いていると、一緒に食べなといってご馳走してくれました。

菅野
 佐藤さんとは同じ福島出身同士なので、ここのデイサービスに来て仲良くさせていただいていますが、お互いにあんな思いは、もうしたくないし、これからの子供達にさせてはいけませんね。

 

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