| 皆様は終戦当時どちらにいらっしゃいましたか。
小松様
三浦の三崎にいました。次女を出産するために、十九年に三崎に参りました。おかげで三月十日の大空襲は免れました。当時住んでいたのは、小石川でございましたから命拾いをいたしました。
武田様
私も山形に疎開しておりました。住んでいたのは,白山でしたから後で戻ってみますと家も看護婦として勤めていた病院も何もかも焼けていました。
藤井様
三月十日は、浅草にいましたから空襲をもろに受けましたよ。父は帽子の問屋をしてまして、店の防空壕に逃げました。コンクリートの建物やったからたすかったんやわな。
原様
私は田舎にいましたから,皆さんのような恐ろしい目には合いませんでした。でも高等科二年の時に勤労奉仕で国鉄に行って切符切りをしました。姉も製糸工場で働いていましたが、当時どこの家でもそんなもんでした。
皆様が一番ご苦労をなさったのは、やはり
食べ物の事ですか。
小松様
三人の子供を抱えて食糧難には苦労致しました。着物を持ってよく買い出しに行きましたが、しまいには「もう着物はいらないよ」て言うんです。石鹸や木綿糸、地下足袋を持ってこいなんて言われてもそんな物ありゃしませんよ。小さな石鹸が月に一度配給があるだけです。おむつのウンチは母乳ですと石鹸でないと落ちないのです。ミルクだと水でサッサと振るだけで落ちるんですがね。
武田様
買出しはしょっちゅう行きましたがその汽車はいつも満員で窓から出入りしたり屋根にまで人が乗ってるんですよ。小松様がおっしゃったように、ないないずくしで汽車の切符もなかなか手に入りません。
藤井様
衛生状態が悪いんかなんか、頭からDDTをかけられて往生したわ.。しらみが沸く言うたけど、ほんまに髪の毛から着物の縫い目までいっぱいいるんですわ。
原様
田舎ですから、直接ひどい体験はありませんでしたが、それでもB二九の編隊が日本海の方から東京に向けて飛んでいくのをよく見ました。
貴重な体験を数々伺って参りましたが最後 に皆様は、声をそろえて「現在が最高に幸せ
です。今が青春です」とおっしゃっていただ きました。 |