| ○ ホームシックとシラミ
宝聚院学寮に到着して何日も経たない頃からホームシック到来、子供達の気持ちは本当によく解かる。はずかしながら私自身がこの伝染病にかかってしまったのです。いや、私の方が早かったかもしれない。あちらでシクシク。こちらでシクシク。「戦地で働いている兵隊さんのことを考えてごらんなさい」といくらなだめても駄目。電気を消して泣き寝入りするのを待つよりほか手のほどこしようもない。このホームシックを取り除くために運動をしたり、劇をやったりと、皆で工夫をこらしました。特に不潔にしているわけでもないのに、シラミがわきました。現在のように殺虫剤(戦後はアメリカのDDT)もなく、その防虫には寮母さん共々頭を痛めました。天気の良い日は外に出てシラミ捕り競争です。小さなシラミは潜水艦、中位は巡洋艦、大きいのは航空母艦、終わると班長が合計して大きな声で報告をするのです。「第○班、航空母艦○隻撃沈!」子供達は「ワアー」と笑声。こんな時の笑い声でも私には救いだった。大きなドラム缶に衣類を入れて煮沸することでやや解消しましたが、その為に井戸水が減少してしまい、また頭痛のたねでした。
○ 疎開学童と保護者の面会
疎開学童と父兄の面会にもいろいろと難しい指示がありました。面会の親がみえるとみんなが「わあ!」「○○さんのお父さんだ」と大はしゃぎ、みえなかった子供は急におとなしくなる。さみしいんですネ。お帰りになる時は指示もないのに山門の所までお見送りに出る。そしてみんなで「さようなら、さようなら」と。この声は村の人が聞くと、何とも悲しく、涙する村人が多かったようです。
十一月に入ってからは空襲警報が非常に多くなり、面会の数も少なくなりました。
六年生が進学のため東京へ帰ることになり、五年生の代表が私と共に駅まで送りに行きました。それから僅か一週間程であのいまわしい三月十日の大空襲があったのです。あの盲爆で外出国民学校のある本所区は全滅となりました。あの時期、これから危険が迫るであろう東京へ疎開児童を帰すとはどうして! あの子供達は! 悔やんでも返らぬ事ながら、数十年経た今もくりごととして私の胸を痛めます。疎開のことを思い出す度に心に残っているもう一つのしこりは、教師としての第一のつとめである「勉強を教えること」みなさんに充分学習してあげられなかったというこの想いは何時までも消えることなく私の胸を痛めます。
残った宝聚院学寮の集団疎開児童は不安を抱きながら岩手県志戸平温泉へ再疎開が決まりました。やがて昭和二十年八月十五日の終戦を迎え、一冬を志戸平で過し、二十一年三月上野駅での解散を迎えました。つらい気持ちをこらえ、耐え忍んできた日々。この子供達が生きて行くこれからの人生、どうぞ健康で楽しく過せますようにと祈るばかりでした。
私と共に集団学童疎開に参加した外出国民学校五年女子の皆さんは、戦争、疎開、空襲、敗戦を全部体験しています。数十年経過した今、どの位の人が疎開、空襲、敗戦を理解しているでしょうか。平和なんてよく使われる言葉ですが、未来を担うこれからの人々が本当の平和を知るには過去の恐ろしい惨禍、いまわしい事実を知っている私達が、あなた達が戦争に関する実態を伝える責務があると思います。
聚林のときは
かみたき村で、お世話になった宝聚院
濃いみどりの中に
白く光る小さな花
なぜか心にしみた林檎の花
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