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明治三十五年(一九〇二年)四世吉住小三郎と三世杵屋六四郎によって結成された「長唄研精会」は現在も続けられており、この定期演奏会によって長唄は広く一般家庭に普及し、明治後期から大正期にかけて長唄演奏会の全盛期を迎えたのである。
この時期の長唄界には唄方に六世芳村伊十郎、五世富士田音蔵、四世吉住小三郎、三味線方には十二代、十三代杵屋六左衛門、五世杵屋勘五郎、三世杵屋栄蔵、四世杵屋佐吉、二世稀音屋淨観、また囃子方には七世望月太左衛門、十世田中伝左衛門、三世住田又兵衛などが輩出し、その黄金時代を迎えて「多摩川」「有喜大尽」「紀文大尽」「浦島」「新曲浦島」「楠公」「春秋」など多くの名曲が生まれた。そのほとんどの人々が歌舞伎座、明治座、帝劇などで歌舞伎長唄演奏に活躍すると同時に、演奏会を盛んに開いて各流派の家元として伝統を守り、家系を重んじて後継者の育成にも力を注いだのである。
「有喜大尽」(うきだいじん) この曲は明治四十二年(一九〇九年)五月に長唄研精会で発表された。作詞は中内蝶二、作曲は三世杵屋六四郎、四世吉住小三郎となっている。在来の長唄はともすれば型に嵌った踊りの地として用いられて来たので、その作詞、作曲も一定の枠を出られなかったのだが、この曲はその枠を越え型を破って極めて自由な形式をとり、先ず大勢の踊りに始まって元禄時代の流行唄をあしらい、自然とその時代の雰囲気や色里の情緒を表して在来の謡曲風とは違う歌舞伎風の言葉を配するなど、作詞者作曲者の苦心が窺えるのである。内容は大石内蔵助が吉良方の目を欺くためわざと身を持ち崩し放埒な日々を送り、周囲から「うきさま、うきさま」と言い囃されて祗園や伏見の茶屋で浮かれ狂っていた、その華やかで艶めかしい色里の情緒と武士道気質を見事に織りなして舞踊劇風に組み立てたものとなっている。
「紀文大尽」(きぶんだいじん) 明治四十四年(一九一一年)五月の長唄研精会で発表され、最も大胆に長唄の新機軸を見せたもので、従来小唄を組み合わせるか、謡曲の変化だったものを「有喜大尽」よりもっと形式を自由に内容を潤沢にして聞く人の目の前に内容を彷彿とさせるだけの活きた唄であるべきだとして、さらに戯曲的に進展させている。その構成は六段に分けられ、一段目は楽器演奏のみで暴風雨の海の光景を表し、二段目はやや静まりかけた風雨の中で悲壮な舟唄を聞かせ、三段目で風雨が晴れて海上凪渡った喜びの舟唄となり、四段目では暴風雨の遠州灘を蜜柑船が無事乗り切った有様を、五段目には積荷を運ぶ賑わいによって巨万の富豪となった初代紀文の面影を表現して、終わりの六段目では二代目紀文の豪遊を描いて廓の情緒をのんびりと漂わせている。
作詞作曲とも「有喜大尽」と同じで、作曲作意がぴったりと合って、長唄の中でも上演の場が多いとされている。
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