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70歳以上の機関誌「銀杏」
特別企画「若い世代に伝えたい一言」(第六回)
     
 
 私の戦争体験
 
 
小澤すず子(94歳)
 
     

小澤すず子様 人形づくり教室でおつくりになったお人形と一緒に 私は、終戦の時に、ハルピンにいました。
 主人が安田火災に勤務していましたので、ハルピンに住んでいました。
 終戦を事前に知っていたと思われる軍の幹部の人達は、私達一般人には何も知らせずに、ある日一足先に飛行機で日本に帰ってしまったのです。
 また、領事館の前を通った近所の人から領事館の人達が軍のトラックで今日全員出ていったとの話も聞きました。
 さらに、軍人の官舎の人達も、ある日全員が出ていったことを後で聞かされて、残された私達はお互いに自殺する覚悟を決めたことを思いだします。
 日本の終戦は、一般の日本人には何も知らされず中国人や韓国人の方が先にその情報を得て次々に手を打たれて、私達日本人は本当に惨めな経験をしました。
 安田火災に勤務していたロシア人は、ほとんどの人がロシア革命で中国に入った貴族でしたが、日本の終戦と同時にロシアにつれていかれて、ご主人はほとんど殺され、御奥様だけ帰ってきた話を聞きました。
 幸い私達家族は、「トウタク」という半官半民の土地会社の財産管理をしていたロシア人がよい人で、私達日本人をこのロシア人が責任をもって保証することを赤軍にいってくれましたので、危害を加えられないですみました。
 食べるものがなく、持っていた衣類を売って「売り食い」をしながら生き延びてきました。日本の着物一着で中国服二着できましたので、信頼できる中国人に頼んで、売ってもらい、そのお金でなんとか食べるものをつないできました。
 昭和20年8月15日の終戦から、一年後の翌年8月に、アメリカ軍の飛行機が来て、私達は、日本に帰る事が許されました。
 忘れもしない昭和21年9月21日に私達家族はむがい車に乗ってハルピンから大連の先にあるコロトウに向かいました。
 ハルピンでむがい車に乗る時、私達家族もお隣の家のご家族も上等な新しい衣類を選んで持って長旅に備えましたが、中国人の検査官に荷物を全部検査されて持っていた衣類を全部取り上げられてしまい、着のみ着のままでむがい車に乗ったことを思い出します。
 途中で用を足すときには、貨車にはしごをかけて降りて、コウリャン畑の中にはいってせざるを得ませんでした。
 また、水がなく、喉が乾く、つらい旅でした。貨車が止まると、中国人の子供がお湯を「カイスイ」「カイスイ」(升水)といって売りにきましたので、貨車の上から、水筒にひもをつけて下ろして、入れてもらい、相当のお金払ったことを思い出します。
 やっとのことで、貨車が錦州について、軍官舎で休息をとりましたが、官舎にはすでに床も窓も取り外されて、壁しかないところで下に毛布を敷いて、十日間難民手続きをしてコウリャンご飯を食べながら帰国を待っていました。
 ようやく港に案内され、迎えにきた日本の駆逐艦だったと思いますが、乗ることができ九州の博多港に帰ってくることができました。
 日本の土を踏むことができたときの気持ちは言葉では表現できないものがありました。
よく無事に帰国できたものと、今でも奇跡のように思っています。
 日本に帰国してから、今日まで「私は、ハルピンで軍人をしていました」という人にまだ一人もお目にかかっていません。
 戦争は、勝っても負けても一般の人も含めた犠牲者が必ず出ます。どんなことがあっても戦争という手段をとらないで解決する努力をしていかなければ、本当の平和は来ないと思います。
 どんなに正しいことであっても、人の命を犠牲にする方法で実行してはならないと思います。
 戦争を体験した人は、戦争の無意味さ、惨めさ、悲惨さをありのまま若い人にお話して戦争という方法では、決して本当の「平和」は生まれないことを、それぞれの体験を通して伝えていかなければならないと思います。

 

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