| 私は、東京の芝増上寺を少し入ったところの芝佐久間町で生まれ、そこで結婚し料理屋をはじめました。
昭和17年〜18年頃から情勢が厳しくなり料理屋ができなくなりました。主人は、海軍の御用商売として必要な物資の仲介をして徴兵を免れましたが、物資の調達は厳しく大変苦労したようです。
空襲がひどくなり、自宅のそばに防空壕を近所の人たちが手伝ってくださって掘りました。それでも、母と姉は空襲が終わったと思って防空壕を出て自宅に戻ったところを爆撃されて、二人とも即死しました。戦時中のこと故、御棺がなく困りましたが、姉が女学校から軍需工場に学徒動員で働きにいっていましたので、学校から母と妹の棺を持ってきてくださり、お寺さんも頼んでくださって、なんとか葬儀をしたつらい思い出があります。
戦争の体験は、言葉に尽くせないものがあります。父は空襲が終わったと思って防空壕から出たところで爆撃され、血だらけのままなんとか病院まで行きましたが、病院にはもう治療する薬も包帯もない状態で、ほとんど手当てをされないまま何日か病院の廊下に置かれていたことを思い出します。
やがて、広島、長崎に特別な爆弾が落とされたという情報は、「ピカドン」という特種爆弾が落ちて、大変なことになっているということを聞かされ、日本の敗戦が近いことを感じました。
昭和20年8月15日終戦を迎えましたが、日本中が食べるものに事欠き、配給だけではとても生きていけない時代でした。当時の新聞には、ヤミの食料を一切受けず配給食糧だけで生活していた裁判官が栄養失調のために亡くなられた新聞記事を見たことがあります。
日本は、まさにドン底から奇跡と言われるような復興をして今日の繁栄を築きましたが第二次大戦によって若い優秀な人材を多く失ったことは、日本の将来を考えますとはかり知れない損失であったと思います。戦争という手段ではなく「外交交渉」によって、日本が独立国として他国に支配されることなく、正しい主張を貫ける「芯」のある日本人が育ってほしいと願っています。
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