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70歳以上の機関誌「銀杏」
いわき市の偉人たち 岩城下総守常隆  
 
 
  
 
 
佐藤孝徳 
 
 

戦国時代初期に活躍した岩城常隆

 岩城社長の御祖先の方に、十五世紀末から十六世紀初頭という戦国時代の初期に、東北南部から北関東にかけて、主に現在の福島、栃木、茨城の三県にまたがる広大な地域を支配し、政治、経済、宗教、文化の各面にわたって地域の繁栄に尽力された岩城下総守常隆という人がおられます。
 福島県いわき市では、同市が発行している「いわき民報」に、『第十七回いわき学いわき市の偉人たち♀竢髀隆』という記事を掲載されましたので、御紹介いたします。
 
     

 磐城という地域の内で、一番大きな行政の市であるのが、いわき市である。このいわき市で一番良く知ってほしい人物が岩城下総守常隆であるのだが、知っている者は、市内でも数少ない。その活躍したのが十五世紀末から十六世紀の初頭という、戦国時代の初頭の人物であまり昔のはなしであったためであろう。
  もっとも戦前の郷土史を見てみると江戸時代の磐城平城の築城あたりより記されており、岩城家の支配時代はほんのわずかの記載であるので、しかたがなかったのかも知れない。
 では、なぜもっとも知ってほしい偉人として挙げたのか、理由であるが、それまで海道と称されていたバラバラの地域を磐城四郡として一つにまとめて支配権を確立させ、さらに、南の常陸国(茨城県)に進行して領地を拡げ、田村郡、石川郡の弱小支配者を配下に置き、政治的陰謀により名門大名白川家を与力大名化し、遠く下野国(栃木県)那須庄の大名那須家に娘を嫁がせるなど、東北南部より北関東にまたがる広い地域を支配した人物である。また文化の面でも当時の教養の一つである連歌を好み、大宗匠 猪苗代兼載を招いているなど、並々ならぬ力をつくしている。
飯野平城(大館城)跡の碑  だから、その繁栄により城下の飯野平は政治、経済、宗教、文化の中心地であった。現在そうした繁栄の跡は薬王寺の写経類、如来寺の典籍、宝聚寺の典籍、龍門寺の足利政氏の扁額、飯野八幡の宝物、獅子舞など、一つ一つ発掘していくことができる。
 つい数年前には猪苗代幢の家集の和歌集が発見され、常隆の次男由隆の短歌がみえているのもその一つであった。
 では、岩城常隆とはどのような人物であったのだろうか。ただしその誕生の年月日は不明であるが、その歿年は永正七年(一五一〇年)十一月二十七日であった。父は岩城下総守親隆(虎山)、母が岩崎氏である。祖父隆忠・父親隆の親子は永享の乱・結城合戦以後、その勢力を拡大し隣郡岩崎郡の支配者岩崎家を滅亡させ、その娘を親隆の妻としている。だから、常隆の体のなかには、岩城郡と岩崎郡の正統支配者の血が入っているわけであり、何人よりも意義を称える余地がなかった。通称は下総守・従五位下であったという。
 父親隆は早く相続権を彼に与えたようであるが隠居後も政治の面で実権を握っていたようだ。彼がまず行ったのが、岩城郡と岩崎郡の群境の中央に新たに城を築城した。時に文明十五年(一四八三年)のことで、大館の古城と称された飯野平城である。すでに父の代に楢葉群は征服していたので、彼が勢力拡大のため目を付けたのが隣国常陸国であった。平安末期よりその地の支配権を握っていた守護佐竹家は一族の内紛で勢力が弱体化していた。そこで文明十七年(一四八五年)七月、常隆は国境を越え、まず多賀郡の車城主車家を滅亡させ、さらに龍子山城(高萩市)の大塚成貞親子を服従させ南に軍を進めた。守護佐竹家は降伏。屈辱的条件で和を結んだ。
 戦国大名にとって勢力を拡大させるには、なにも戦いに頼るばかりでは良くない。他の策もある。その策とは政略結婚である。彼常隆には多くの子どもがあった。まず後継者となったのは嫡男盛隆であったが、子どもがなかったので弟の由隆を順養子となし、隆道を植田家に、隆相を岩崎家の流れを汲む舟尾周防のそれぞれ養子として内を固めた。外には佐竹家の正統である義舜、田村荘の領主田村義顕、那須荘の領主那須政資らの大名に娘を嫁がせた。さらに領内の旧国人の流れである中山家・上遠野家にも娘を与えている。隠居後の誕生である隆時を相馬家の進攻をを防ぐため富岡に城を築かせた。
 晩年の永正七年(一五一〇年)九月九日名門大名の白川家を陰謀の計により服従させた。ここに至り福島・栃木・茨城の三県にまたがる広大な地に支配権を確立させたのであった。

 

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