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70歳以上の機関誌「銀杏」
若い人に一言「私の戦争体験」  
 
 
  
 
 
畑 二三夫(91歳) 
 
     

笑顔の畑二三夫様(於 シルバーヴィラ向山T号館からU号館の渡り廊下) 私は、昭和13年12月に、習志野騎兵隊第15連隊に入隊いたしました。そして14年の4月まで、はじめての軍隊生活を経験したのでございます。
 いろいろの軍隊の話では、かなり残虐で過酷な訓練ということは聞いておりましたが、まさかこれ程までの訓練とは想像もしてませんでした。それは口では一言では言えない残虐なものすごい訓練でした。まさに人殺しの訓練です。
 銃剣でわらの人の形をしたものを「シュツ」と突撃して次の陣地に行きます。ささらないことには何回もやり直しというようことがありました。山へかけ登り、うしろから人をおそったり、靴でけられたり、というような光景がいっぱいありました。私も何回かはやられましたが必死でその訓練をやりました。
 一番恐かったのは乗馬訓練です。馬の事を知らない私が、馬の手入れをして鞍をつけたり、馬が言うことを聞かずに飛び出してしまい、その馬をつかまえるまでが大変で、大勢でつかまえ、ようやく鞍をつけた時には顔は腫れて誰だかわからない程ふくれあがっていました。背の高い馬に飛び乗り、駆け足、早足の練習、片手でたづなを持って全速力で走る。もう片方の手で銃剣を持ち、人間の形をしたものを刺すのです。中には落馬をし、骨折し、血がふきだして亡くなった人もいます。この訓練も約4ヵ月間無事に終え、しばらく静養し、昭和15年5月、中国へと派遣となりました。
 貨物列車に乗り神戸に着き、そこで2日間待ち、船に乗りました。玄界灘は波が荒く、かなり揺れがひどく、戦友の中にはからだを壊し、おなかを痛め、かなり苦しんでいる者もいましたが、私はそれ程の苦しみもなく、三度の食事をとることができました。ただ、かなりの揺れで酔わずにいることが大変でした。
 一週間後、中国(北京)に着き、戦地の部隊にそれぞれ分かれて行きました。
 3日後、いよいよ戦場の訓練が始まり、これが内地と違ってもっと苛酷な訓練でした。
 夏は暑く、冬は零下40度、そういう中でほとんど毎日のように人殺しの訓練がなされていたのです。中には手が凍傷になり指を2本も3本もとった人もいます。それはロシア連邦連隊という部隊で、まごまごしていると、手袋はとられる、何はとられるで、又とりかえすことのできないひとは、ほとんど凍傷になり、病院に入院したり、ひどい人は亡くなったりしました。あまりいいことではありませんが、とられた事でなぐり合ったりもありました。私はいつも大きな毛糸の手袋だけは二つ持っていました。一つをなくしたら一つをするというふうにしていました。それでも今でも寒くなると指がしびれ痛む事があり、あの時の凍傷の為ではないかと思います。
 いよいよ4年兵になって、部隊は汽車も人も行かない所での大作戦がありました。黄河作戦です。そこで生きていられる者、死ぬ者との二つに分かれました。大きな黄河の河は凍っていて、それが溶ける前に渡るのです。ここでかなりの戦友が戦死しました。私が今ここで過去の話ができると言うことは、恵まれている一人です。
 戦死した人の話をすると、本当にびっくりすると思います。敵の捕虜になると、大変な仕打ちがありました。針金で右の耳の穴から左の穴へ通され、首は針金で巻かれ、原っぱへそのまま放置される。こういう光景を作戦中かなり見ました。
 本拠地に行くと敵の攻撃も激しくなり、ここでかなりの戦死が出ました。私が前進している時に、ある将校ですが、目に弾丸(タマ)が当たり、目玉が吹っ飛んで血だらけで、「助けてくれ! 助けてくれ!」という声を聞きながら、それを助けることが出来ず、そのまま前へ、前へ前進した記憶があります。そこから100メートル位行った時に、敵の一斉攻撃にあいました。そこで戦友達はバタバタと倒れ死にました。私は無駄死にだけはしたくなかったので、倒れた人の陰にかくれながら、又前へ、前へと進みました。弾丸の中をよけての前進です。それは危ない思いをしました。そしてかなりの捕虜もつかまえました。私も捕虜の監視員をした時には、敵といえども、暴力をふるうことはせず、むしろ見すごしてやることが多かったです。中には、頭を殴ったり、蹴とばしたりしている人もいましたが、私はそういう事はしたくなかったのです。
 零下40度の中、トラックでの移動もしました。ちょっと眠ると凍死してしまうので寝ることも出来ない。眠ってしまって凍死した人もいます。そして手袋をなくしてしまった人は、銃を握っていた手がそのまま凍って放れなくなり、皮がはがれ落ち、肉が出て、血が出ている人もかなりいました。軍隊という所は、それほど苛酷な所でした。
 それから私は昭和17年に内地に帰ってきました。そして又19年に再び招集を受け、福島のふうせん爆弾を作る部隊に半年居ました。風船爆弾を上げ終わって、竹橋の東部軍管部司令部に勤務になりました。宿舎は、竹橋の元、高校の宿舎でした。この時には結婚をしておりましたので、家内が面会しに来てくれました。
 今、戦争が終わり、平和になり、若い人の記憶にも戦争はなくなりました。戦争は私達の時代だけでたくさんです。子ども達は、一生懸命勉強して、一生懸命遊び、そして平和な国を保ってもらいたいと思っています。そして心をひきしめて、与えられた事をやり遂げ、りっぱな父親、母親になってもらいたいと願っています。

 

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