機関紙「銀杏」

社長 連載 コラム

岩城  隆就

いわき たかなり


シルバー四季のつれづれ

銀杏75秋号  2023年11月

子どもの送り迎えは誰が?

 最近お隣の埼玉県議会で子供の放置を禁止する「埼玉県虐待防止条例改正案」が県議会に提出され、その後、反対意見のあまりの多さに慌てた自民党県議団は議案を取り下げたというニュースを目にしました。この改正案は小学三年生以下の子供に留守番をさせるとか、大人が付き添わない通学は「虐待」に該当するという厳しいものでした。

 この記事を見て商社マン時代のイランでの出来事を思い出しました。今から45年も前のパフラヴィ王朝の時代です。       

 当時私は首都テヘラン郊外のガスタービン発電所建設事務責任者としてテヘラン支店に長期出張しておりました。まだ27歳の若造が「責任者」ですから、よほどの人手不足であった次第です。同じ支店内には現地のイラン人スタッフも大勢働いていたのですが、午後になると男性スタッフが三々五々会社を抜け出し、また暫くすると戻ってくるのです。何をしに外出しているのかと尋ねると、小学校・幼稚園に子供の迎えに行っているのだそうです。しかもどのスタッフにも奥さんはいるとのことでした。

半世紀前の昭和男子的には恥ずかしながら「ありえないだろう」という感想を持ちましたが、よくよく聞いてみると、イランでは婚姻に際して当事者間で契約書を交わすのが当たり前だそうです。日本と違い根っからの契約社会なのですね。なんでも特段の合意・取決めがない限り、子供の送り迎えは男性側の義務だというのです。社会通念としてそうなっているそうです。つまりイランでは当たり前に男女共同参画社会が半世紀以上も前から実現されていたことになります。

 ひるがえって、議案提出を審議した自民党県議団長は「改正案に瑕疵はないが、私の説明不足であった」とか。議案取り下げは当然ながら、この県議団諸氏は自分ごととしてこの課題をどれほど深く検討し議論を尽くしたのでしょうか。そもそも議員活動中であろうと「自身」で子供を送迎する自覚と覚悟があったのか、伺ってみたい気がします。


銀杏74夏号  2023年7月

白いグランドピアノ

本館ロビーにて
本館ロビーにて

 シルバーヴィラ本館ロビー中央に鎮座する白いグランドピアノは当施設の一つの顔として開設以来、皆様に馴染まれております。時折、指に覚えのあるお客様が他の皆様を楽しませてくださっています。

 今回は、このピアノにまつわるチョットいいお話をご紹介したいと思います。  

 当シルバーヴィラ向山開設の42年前は、有吉佐和子氏の「恍惚の人」が衝撃を持って登場した時代です。「有料老人ホーム」という名称も市民権すら得ていない時代でした。老人ホームと言えば「養老院」と解される時代であり「福祉」とはお上から下される、つまり「措置」(=行政処分)されるものでした。 

 そんな時代に全室個室、入居される方を「お客様」とお呼びするサービス業としての老人ホームを作ろうというのです。監督官庁の厚生省(当時)からは「年寄りを個室に入れてどうする。何かあっても誰も気づかないじゃないか」と大反対だったそうです。まさに暗い前時代です。  

 だからこそ「施設」にまつわる時代のイメージを大きく変えるシンボルとして「白いグランドピアノ」に託そうと思い至ったようです。  創業者の祐子会長はなんといきなりヤマハの川上源一社長のもとを訪れます。何しろ役所も反対する施設建設です。銀行も融資を渋ります。そんな資金難の際に協力(値引き)を願い出たそうです。ところが川上社長は「ピアノは職人が丹精込めて作ったものだ。値引きは難しい」と首を縦に振らなかったそうです。  

 やがて竣工したシルバーヴィラ向山1号館に白いグランドピアノが届きました。その請求書は思いがけず破格の安値でした。からくりはこうです。工場から出荷された新品のピアノは、池袋の店舗に一旦おろされますが荷ほどきされぬまま一晩過ごし、翌日当館に届けられたのです。新品ながらも店頭展示品扱いにしてくださったのです。  

 祐子会長の行動力もさることながら、川上源一氏の粋な計らいは、今でも私の心に深く刻まれています。


銀杏73春号  2023年3月

「うどんすき」〜関西支社時代〜

「美々卯」ホームページより
「美々卯」ホームページより

 17年在籍した三菱商事時代は発電プラント輸出一本槍でしたが、1980年から2年間ほど関西支社で関西電力さんを相手に国内業務に携わりました。

 国内取引も無論初めてのことでしたが、関西での生活も初めてのことでした。何しろ東京以外に住んでいたのは札幌だけでしたから・・。武士の関東、商人の関西と言われるほどだから「商売はきついぜ、しっかりな」とさんざん脅され、不安を抱えての赴任でした。

 行ってみれば言われた通りで、最初はとにかく大変でした。何かあると「これだから関東者は困る」などと訳の分からないことを言われ困惑と苦労の日々が続きました。

 とはいえ大阪と云えば、「天下の台所」「食い倒れ」の代名詞を持つ食文化に溢れた街です。まだ脳ミソの半分が胃袋で出来ている29歳ですから食べることには人一倍熱心でした。東京で机を並べていた先輩・後輩が何人も来ていましたからガイドには事欠きません。あちこちへ案内してもらいました。関東人にとっては、天ぷらと云えば大根おろしと天つゆですが「こっちではレモンと塩が常識。「天つゆ下さい」なんて注文したら田舎者扱いされるよ」とかいろいろと教えてくれました。

 そんな時に出逢ったのが郷土料理「うどんすき」です。だし汁でうどんと様々な具材を煮ながら食べる料理ですが、このだし汁が上品で美味しいのです。老舗「美々卯」のお持ち帰りセットをよく買って帰りました。これで一杯やると「ああ、日本人に生まれてよかった~」としみじみ感じ、体ばかりか心まで温めてくれました。

 仕事の方も、だんだん要領がつかめ、お客様のところに通い詰めている内に懐に招き入れてくれるようになり、二年目は最初の一年が嘘のように楽になりました。そして、大阪を離れる日には、お客様や仲間が盛大に送別会を開いてくれました。この大阪時代の語り尽くせない苦労がなかったら今日の自分はないと今でも思っております。


銀杏72秋号  2022年11月

初めてのお使い(出張)②〜'75年当時の中東〜

様変わりした現在のカタール
様変わりした現在のカタール

 大荷物を抱え、複数回の乗り継ぎを経てやっと辿り着いたカタールでの入札結果は散々でした。日本のプラント輸出は当時まだ黎明期であり経験を積み競争力を発揮するのは数年先になります。

 帰国の段となり、現地支店もない中で帰国便とルートを一人で決めなければなりません。地図帳を頭に描いてより近い東に向かって帰ることにしました。パンナムの世界一周便(PA002便)を捕まえれば直行で帰れます。ただ問題は内戦の始まったベイルートまで出ねばならないことでした。一瞬迷いましたが国際線が発着しているなら大丈夫だろうと腹を括りました。

 褐色の土漠が果てしなく続くカタールを後にしてベイルートに着いてみると果たして空港ビル内は壁一面銃弾の跡だらけです。戦争を肌身で感じさせられました。パンナム便が来るまで8時間もあります。気軽な気持ちで数十ドルを現地通貨に替えました。これが間違いでした。搭乗時間が来て残った現地通貨を米ドルに戻そうとすると、なんと空港の銀行はこれを拒否したのです。数時間前に替えた際の伝票を見せても首を横に振るばかりです。全く取り合ってくれません。

 そこで初めて気づきました。内戦状態にある国の通貨は紙切れ同然になるという事実に。非常事態下で頼りになるのは米ドル等の国際通貨、しかも現金だけです。結局、高い授業料を支払う羽目になりましたが、初出張の割にはとても貴重な体験となりました。

今年2月末以降、ウクライナから大勢の難民が流出しています。ドルやユーロを日常的に手元に置いている人はほとんどいなかった筈です。あの時の悔しさ無念さが甦ってきました。そして国連難民高等弁務官事務所にも少しばかり寄付させていただきました。


銀杏71夏号  2022年8月

初めてのお使い(出張)①〜'75年当時の中東〜

様変わりした現在のカタール
様変わりした現在のカタール

 社会人になって初めての出張先は中東のカタールでした。サウジアラビア半島からペルシャ湾に突き出た半島国家です。今年11月のサッカーワールドカップ開催国ですし、93年のドーハの悲劇としても有名ですから皆さんもご存じかと思います。とは言え当時はまったくの無名の国でした。一方の私はまだ入社2年目、外国に行くのも初めて、そもそも英語もまともに話せないそんな私への突然の命令でした。

   '75年当時の中東はオイルショック後の原油価格高騰で突然にお金持ちになり、ラクダからキャデラックに、ランプから電灯へと近代化へ歩み出したところです。そんな訳で火力発電所建設の入札が招集された次第です。私の配属先は原動機輸出課でした。発電設備輸出を担当とする部署です。中東はまだ新しい未開拓市場でした。日本でも中東は未知の国、「車のボンネットで目玉焼きが作れる灼熱の国」と日経新聞にまことしやかに紹介されていた時代です。三菱商事でも、カタールにはまだ駐在事務所もなく、国際電話もほぼ通じない時代でした。朝、国際電電(KDD)に申し込んでも電話が繋がるのは夜になるという今では石器時代?とも感じられてしまう時代でした。

 私の仕事は入札書類を運び入れ、その後の情報を集め帰国するだけでしたが、TV番組の「初めてのお使い」そのものです。なんでそんな(幼い)私がお使い役に選ばれたかと言うと中東がまだ新しい地域であり、中東担当者が私を含めてたったの3人しかいなかったからです。上司2人も中東に行ったことすらありませんが、他の担当案件もあり、席を空けるわけにはいかなかったわけです。

慌ててパスポートを取得し、書類段ボール4箱を担いで(今時なら電子媒体で済む話ですが・・)いざ出発です。(次号に続く)


銀杏70春号  2022年3月

札幌〜東京無銭旅行 初めてのヒッチハイク④

ヒッチハイクの経路
ヒッチハイクの経路

ヒッチハイクの極意「バックミラーに手を振る」を会得した小生は快調に函館に向かいました。出費を覚悟していた青函連絡船ですが、函館の手前で大阪行きのトラックに乗ることができ、青森まで同乗しました。運転手さんによれば助手の運賃も含まれるとかで、380円を丸々節約出来ます。下船の際、置いて行かれては大変ですから、到着30分も前からトラックの横で運転手さんの現れるのをじっと待っていました。厚意にすがるというのもなかなか大変なものです。

深夜の青森で日本海側を行くトラックと別れ駅舎で野宿しようとしていたらユースホステルの看板が目に入りました。素泊まり一泊200円ですが、もう夜中ですし寝袋で寝るということで半額にしてもらいました。朝食は100円でしたが、30円のパンで我慢・節約しました。お金がないと逞しくなるものです。

翌朝、750km先の東京を目指してヒッチハイク再開です。青森から仙台までは400kmありますが、途中の記憶があまりありません。八戸くらいまでは覚えているのですが・・。疲れと空腹のせいで眠ってしまったようです。夕方、仙台に辿り着きました。もう限界でした。

   仙台発16時15分の八甲田1号に飛び乗りました。学割切符と急行券で1340円。手元には30円残るだけです。池袋~豊島園がちょうど30円です。何とかなりました。夜11時前、実家に到着です。金銭的には神がかり的でしたが、予定通り一泊二日で1200kmの旅を終えることができました。

かわいい子には旅をさせろと云いますが、本当にそのようです。おかげ様で世界中どこにでも一人で行けるようになりました。めでたし、めでたし。


銀杏69秋号  2021年11月

札幌〜東京無銭旅行 初めてのヒッチハイク③

さあ、お昼も食べ、長万部からの再出発です。よく考えると早朝から半日を費やして移動距離はまだ200km程度です。東京までまだ1000kmもあります。このペースだと三日も掛かる計算です。おまけに北海道と本州の間には津軽海峡があります。この100km区間は青函連絡船で4時間も掛かります。ここはヒッチハイクするわけにも行きません。2等乗船券で380円もします。一方、道中の胃袋給油も重要です。「もし、所持金が底をつけば・・・あぁ、餓死してしまう!」危機感が頭をもたげます。何しろ食べ盛りの十代です。空腹=餓死と短絡しがちです。

移動ペースが遅いのは、降車後次の車を捕まえる成功率が低いからです。街中でタクシーを捕まえるようには行きません。何とかする必要があります。目の前を無情にも通り過ぎる何台もの車を眺めながら必死で考えました。

まさに「必要は発明の母」です。唯我独尊真っ盛りの十代学生が相手側の視点に立ち考え始めたのです。コペルニクス的大転換です。

『前方に手を振っている若者が見える。どうやらヒッチハイカーだ。乗せてやろうか、どうしようかなぁ』とまず迷う筈です。でも『変な奴だったらいやだな。それに茂みからぞろぞろ仲間が出てこられても怖いし・・』とさらに迷います。そうこうしているうちに、車はスピードを落とさず目の前を通過します。が、間近で私を見るはずです。『案外まじめそうな奴じゃないか、乗せてやろうかな』と思う訳です。そしてバックミラーを眺めるのです。問題はこの時です。私が背中を向けて次の車に向かって手を振っていたら何と思うでしょうか。ブレーキを踏まず、そのまま走り去ってしまうことでしょう。そうなのです。バックミラーに向かって手を振ることこそが鍵だったのです。そうすると車は100mほど先で止まってくれます。あとは荷物を担いで走って行くだけです。成功率は飛躍的に上がりました。

あらら1kmも進まぬうちに紙面がつきました。次回は何とか津軽海峡を渡り切りたいものです。


銀杏68夏号  2021年8月

札幌〜東京無銭旅行 初めてのヒッチハイク②

ヒッチハイクの経路
ヒッチハイクの経路

 お待たせしました。いよいよ出発です。慣れぬ手で塩おむすびを握り(コンビニ誕生前の時代です)、水筒を満たし、寝袋を担ぎ、薄ら白み始めた札幌の街を一人歩きだしました。 札幌から函館まで300kmあります。山間を通る小樽~ニセコルートより少々長くても平坦路で交通量の多い千歳~室蘭ルートを選びました。日の暮れた峠道でヒグマと対面したくもありませんので・・。

最初に止まってくれた車を今も忘れません。タクシーでした。街中で手を上げてはいけません。怒られました。街外れまで歩き一台の車がやっと止まってくれました。これで帰れると小躍りです。乗せてくれたのは札幌を中心に道南を巡る営業マンでした。「一人で運転してると眠くなるんだ。話し相手が欲しくてね」と乗せてくれた理由を話してくれました。『ああそうなんだ』と気づきました。援助を受ける側にも期待される役割がちゃんとあったのです。よかったです。好意にただ甘えるだけと云うのも申し訳ないと思っていましたので。話し相手程度なら何とかできそうです。少し気が楽になりました。

 眠くさせてはなりません。一生懸命に話題を捜し、話し掛けました。十代の学生の話ですから、大して面白いわけがありません。しかしこっちが黙ってしまっては、自分も眠くなります。これでは乗せていただいた義理が果たせません。こちらも必死です。熱意が通じたのかドライバーさんを眠くさせることなく、千歳、苫小牧、室蘭、長万部と乗り継いで来られました。長万部ではなんとお昼までご馳走になりました。金のない身にラーメンが沁みました。

 さあ、函館に向け旅は続きます。と、ここで紙面がまた尽きました。東京は遥か先です。どうなることでしょうか。次号に続きます。


銀杏67春号  2021年3月

札幌〜東京無銭旅行 初めてのヒッチハイク①

 昭和45年春、憧れの北大に入学することが出来ました。当時は、入学式をすっぽかして単独で雪深い春山に向かうくらいの山好きでした(今は重力に逆らうことは極力避けています)。美しい大自然に接すると人間は誰でも芸術家(気分だけですが)になる様です。この雄大な風景をカメラで写し取ろうと云う衝動を抑えきれなくなってしまいました。

 その頃も母親は金銭に大変厳しく最低限の経費しか仕送りしてくれません。一日の食事代が300円。学食のエルム定食が一食130円。知恵を絞らなければ生存すらおぼつかない状態でした。

 しかし、「若さ」とは後先を考えぬ無謀、かつ浅慮なものです。初めての夏休み直前に、なんと数万円もするカメラを買ってしまったのです。バイト代だけでは足りず帰省費も動員してしまいました。手元に残ったお金は僅か1500円。札幌~東京の国鉄2等乗車券が2380円(学割・急行券不含)もします。さあどうする。無論、どうにもなりません。そこで思いついたのが東京までの1200kmをヒッチハイクして帰ることです。

 幸いなことに友人に経験者が一人いました。と言っても道内で一度体験しただけでしたが。それでも経験者が一人でも存在することは、タダで乗せてくれる車が現実に存在すると云うことです。それなら何とか東京まで帰られそうだと勝手に決めつけました。何とも楽天的です。ぐずぐずしていたら、手元の1500円が食費に消えてしまいます。何しろ札幌~東京まで急行で丸々24時間も掛かります。ヒッチハイクでは何日掛かるか見当もつきません。

 さあ出発です・・と、ここで紙面がつきました。次号を乞うご期待。


銀杏66秋号  2020年10月

男子厨房に入るべし〜ラップ掛けご飯の愛〜

 古来『男子厨房に入るべからず』と云われております。孟子が言った「君子遠庖厨」(君子は厨房に近づかない)が元だそうですが、昔の中国では家庭で家畜が飼われており、厨房内は生き物を屠殺し料理するところであり、君子はそうした血生臭い場所に近づくべきでないとの意味でしたが、男尊女卑の日本では男に都合良く解釈された様です。

 かく云う小生も商社マン時代は、今日家を出て明日帰る(午前様)毎日でしたから、家庭を顧みる余裕も厨房に足を入れる暇もありませんでした。商社を辞め現在の仕事に入り、妻も施設長として働き始めましたが、日本版「君子遠庖厨」は続いておりました。そんな時、目にしたのが久田恵さんの一文です。

『・・以前、知り合いの男がグチっていたことがある。「夜中に疲れて帰るとさ、ウチなんかテーブルの上にラップをかけた飯がポンと置いてあってさ。それを電子レンジで温めて、勝手に食べろ、ってもんでさ。わびしいったらないよ。ウチの女房って、そういうヤツなんだ」

 あら、まあ、なんて性格の歪んだ甘ちゃんでしょう。私、この人とは三日持たないわ、と思った。だって、もしこれが、女だったら、仕事から帰ってテーブルの上に夫が置いてくれたラップかけ御飯を見たら、そこに愛を感じて涙ぐむ。・・』(久田恵著「愛はストレス」より)

 この彼我の視点の違いで見える景色がかくも変わるとは・・目から鱗です。その翌日から厨房に入ったのは云うまでもありません。兼業主夫の誕生です。

 調理をするようになって、これは案外認知症予防になると気付きました。冷蔵庫に何が残っていたかを記憶し、何を買い足せば何が作れると想像力も働くようになったのです。世の男性方、お試しあれ。